被爆体験 伊達さん 当時の新聞 被爆体験 高橋さん
被爆体験 伊達さんのお話 (写真1) 1945年当時の新聞(写真2) 被爆体験 高橋さんのお話 (写真3)

 強い台風12号は、12日現在沖縄の先島諸島にかなり接近し厳重な警戒が必要です。さて、厳重な警戒といえば核の脅威です。西丘小では12日の1限は体育館にて、「豊中市原爆被害者の会」会長の高橋正彦さんと相談役の伊達昭夫さんをお招きし、”核兵器の恐ろしさや戦争の悲惨さ”を6年生にLIVEで伝えていただき、平和について考えました(下写真)。

被爆体験

 長崎で被爆して 被爆体験を後世に

 ・・・ボックス・カー号は、午前11時2分高度9600メートルの上空から原子爆弾(プルトニウム爆弾)を投下した。爆弾は松山町上空約500メートルでさく裂し、爆発によって発生したすさまじい爆風と熱線、放射線は街に甚大な被害をもたらした。爆心地から1キロ以内の区域では、強力な爆発圧力と熱気によって、住民のほとんどが即死したといわれている。当時、長崎の人口は約24万人だった。原爆の投下によって、そのうち7万人以上が1945年の年末までに死亡したと言われている(参考ウィキペディア)。

 絶対に忘れてはならないことがある。日本が唯一の被爆国である事実をだ。今、被爆体験の伝承は「風化の危機」を迎えている。被爆者の平均年齢は80歳を超え、西丘小におこしいただいた伊達さんと高橋さんは、まだまだお元気であるが90歳前後のお年となられていた。

 被爆体験を6年生に 体育館舞台前に被爆関係のパネルを展示しホワイトボードには当時の新聞等の資料を掲示した。伊達さんは、現在90歳。昭和7年長崎市で生まれ満12歳の時に被爆され、お母さんとお姉さんを亡くされている。高橋さんは、現在87歳。満9歳の時に爆心地から4kmのあたりで被爆された。講演が始まった。伊達さんは舞台下で被爆体験を語られる(写真1)。伊達さん「・・・当時の新聞です。8月10日、11日と原爆のことは書かれていない。12日になって、これだけ(新型爆弾を使用せり。被害は僅少の見込み・・・)。当時の軍が本当のことを書かせなかった(写真2)。(中略)夏が来るたびに思い出します。原爆が投下される前の日までの家族団らんが一瞬でなくなった。友達をなくし家族をなくした。もう二度と被爆者を生んではいけない。戦争というものは絶対にダメ。広島が最初で長崎が最後の被爆地にして欲しい。平和というのは仲良く思いやりをもった心から生まれる。核兵器をなくすには何をしたらいいか想像を働かせて欲しい。考えて欲しい。」舞台上では長崎の地図が大きく映し出されていた。円が2つ。その二つの円を高橋さんが指示棒で示した(写真3)。高橋さん「ひとつが当初の投下目標で、もう一つが実際に投下された場所です。北側に2kmずれていたので『私』は助かった。家も爆風で振動がすごく、壁やガラスも飛び、びっくりするほどの衝撃だった。」静かでよどみのない口調、思いは伝わっただろうか。6年生の心に残ったろうか。強いメッセージは確かに受けとった。

8月9日 語るちからに 平和あり