学力向上タイトル 「使える社会」・・備中鍬 手先動かし 明治維新  

千里 九「江戸時代の農業=新田開発と言っても過言ではない。新田開発の立役者となったのが備中鍬であることは、あまり人口に膾炙されていないが、備中は、今の岡山県であることはよく知られている。」

 

千歯扱き

 藍染め

これが 備中鍬(くわ)(写真1)

これが 千歯扱き(写真2)

 これが 藍染め(写真3)

新田開発4  ~ 研究授業 前編 ~ 

  中学校学習指導要領の改訂案等のポイントのひとつに、伝統や文化に関する教育の充実があります。具体的には、社会科での歴史学習などがあげられます。2月13日、今年10年目を迎える社会科の阿南先生が、伝統文化を視野に入れ、2年1組で研究授業をおこないました(左写真)。

 新田開発 歴史をひも解いてみよう。まずは、徳川家康である。1603年、彼は江戸に幕府を開く。大名に土地を支配させ耕地に石高を割り当てたので、米を確保することが政治の基本となった。最も手っ取り早い方法が耕地の拡大、すなわち新田開発である。江戸時代の「農業の発達」のところは、信長や秀吉、家康などメジャーな人物が登場せず、生徒の興味・関心はわきにくい。ジミー大西はメジャーな画家だが、「農業の発達」は地味なのである。だが、そんなことはない。日本の歴史にとって、「農業の発達」には大きな意味があることを教えたい。そこで、阿南Tは、具体的なイメージを持たせようと視聴覚教材を取り入れたのだった。

 新田開発は、幕府や藩だけでなく農民も進んで耕地を開墾した。全国に○○新田と名のつく街が今に残るのも、校区に上新田という地名があるのも、これで納得だ。で、全国の耕地面積は、江戸直前と比べると江戸の終わりには約2倍にまで増加した。これはすごい。なぜか?

 技術革新 備中鍬 阿南Tが鉄の鍬(くわ)を持ったからではないが、似合う(写真1)。新田開発の立役者は、この鍬(備中鍬)なのだ。日本の土地は水分の多い粘質土が多い。ぐっさ!鍬を地面に突き刺す、食い込みと同時に土がつく。運はついても良いが、鍬に土がつくのはなぁ。抵抗が大きくなり疲れる。リポビタン○は、まだ売っていないし。備中鍬こそが、鍬に土がつくのはなぁ問題を解決したのだ。刃を3~5本に分けて土と触れる面積を小さくし摩擦を軽減、土地を深く耕すことにも成功した。こりゃ楽だ。備中鍬は、瞬く間に全国に普及していった。

 技術革新は続く。それまで脱穀(穂から籾をとる)といえば、二本の「こきはし」といわれる大きな割り箸みたいなもので行っていた。それはもう、大変な重労働じゃなないか、あんた!どうしてくれるのよ!というぐらいである。どうもしないが。そんな時に登場したのが、「こきはし」の10倍のスピードで籾(もみ)をとることができる千歯こき写真2だった。鉄のクシの間に、稲穂をかけて引っ張るだけで、穂から籾がとれる優れものである。それなら、米の選別もじゃまくさいじゃないの。米の選別も速くしたいという欲求から、唐箕(とうみ)が登場した。阿南Tはこれらの技術革新を、動画で次々と紹介していく。見ていて、なるほど。そういう仕組みだったのかがわかる授業だった。千歯こきを購入し儲けを追求する農家の次なる一手は、生活を豊かにする現金収入だった。この頃、都市の拡大により商品の需要も大きくなっていく。今までは、自分ちで消費するためだけの作物づくりだったのが、売るために作ろう!ということになるのは、時の流れである。藍染(写真3)、菜種、綿、麻、桑などが作られるようになった。これらを商品作物と呼ぶ。桑が、後編の主役になることを1組の生徒はまだ知らない。

次回:近代日本を支えた美しい糸を紡ぐ。 教科担当