7/5 夏休みの宿題について
夏休みの宿題について
浅田 前校長のブログを読んでいたら、宿題についての考察を発見。以下、浅田 前校長のコメントより。↓
この夏、「校長からの宿題」(夏休みの社会勉強~知ることから始めよう~)という課題を生徒全員にTeamsで出してみた。
「社会では常にいろいろなことが起きています。夏休み中は原爆の日をはじめ戦争をふりかえるニュースも多くあります。少し時間のある夏休みです。「人権」について調べたり、家族で話したりして、社会のこと、世の中のことに目を向けてほしいと思います。人権に関係するテーマをあげてみました。iPadで検索して、知らないことを知って、自分の考えや思いを深めてください。」
として人権課題の16個のテーマを提示し、その中から調べたり家族と話したりしたテーマの番号だけを回答するというものだ。そう番号だけを答えればいいのだ。
終業式で宿題について話もしたし、Teamsを開けば宿題に気づくはずと思いきや、各学年の宿題特集の「学年だより」に載せてもらわなかったせいだろうか、提出率は1年生19%、2年生18%、3年生33%という結果だった。また、「調べたり話したりする中で知ったことや、家庭や学校での生活、また習い事や地域社会との関わりの中で得た体験などをふりかえり、人権の大切さや必要なことについて考えたことを作文にしてください。」という任意の課題を出したら、作文を書く者や調べたことをパワーポイントでまとめた者がこちらは全学年で20人近くいた。
強制も評価もしない中での提出率の結果を、多いとみるか少ないとみるかわからないのだが、やったことが何かのきっかけになったら良しとしようとひじょうに緩やかに捉えた。
自分としては現役の時には考えられない寛大さだ。でも、やはりもう少し枠に嵌めた方がよかったのだろうか。知らないということは危険なことだ。好きにしていいよというやり方は、実はとても怖いことなのかもしれない。
(以上 浅田前校長ブログより)
夏休みは生徒たちも忙しい。教科の宿題、クラブ活動、友だちとの外出の約束、プール、買い物、家族との旅行、塾の夏期講習、、、、など、学校への登校はなくなるが、過密スケジュールの中、自宅をベースに毎日を過ごすことになる。給食もない。
あと2週間の学校生活が終わると夏休みに突入するが、宿題の出し方については、時代に合わせて色々考えないといけない部分があるだろう。自分が学生の頃は、休みの時だから暇を与えてはいけない、とにかく机に向かわせねばならない、という目的で、ひたすら量の多い漢字練習、計算練習、単語の書き取り、、などをさせられたことを思い出す。部活(バスケット)と友だちとの遊びに没頭し「宿題なんて後でやればいいや」と思って先延ばしにし気を抜いているとあっという間に夏休み終了3日前。そこからひたすら追い込んで仕上げ、わからない問題箇所は勉強のできる友だちにノートを借り答えを埋め、滑り込みセーフで完成、ギリギリ提出。自分はそんな情けない学生時代を送っていた。
ただ提出するだけが目的の宿題ならこのようになってしまうのは、いつの時代も同じであろう。しかしこんな宿題は必要なのだろうか?そんな宿題に意味があるのだろうか?勉強する習慣は大事かもしれないが、言われたことだけを作業のようにやり続け、時間だけが奪われ学力がつかないような勉強に意味があるのだろうか?
自分のため、自分の成長のため、自分の進路のため、と思って取り組めるような、モチベーションが高まって、自ら学ぼうとするような宿題が出せれば理想的である。自ら興味があることを深めることで学びは広がっていく。ただ評価をつけるために我々は課題を与え、その課題をチェックし評価の材料にする、という流れがある限り、宿題というものをなくすのは難しい。宿題の意味、宿題の中身については色々考えていかねばならないのだろう。
今の子どもたちは忙しい。わかっている問題をひたすら解かされるのは苦痛だろうし、時間の無駄だと思う子もいるだろう。本当に自分がやりたいこと、苦手な事の克服に時間をかけたい子もいるだろう。時間は有限である。すべての人に平等に1日は24時間しか使えない。その限られた時間の中で「今の自分にとって必要な学習って何?」と自分で考えられる力を身につけてほしいと思う。
しかし、すべてを子どもに委ねてしまうのも、危険である。「宿題は自由、自分のやりたい課題だけをやりなさい」では、結局何もしないで、好きなYoutubeを見続け、ゲームに没頭し、何の進歩もなく、ただ無駄に日数を重ね、夏休みが終わってしまうという子が必ず現れてしまう。そんなケースは避けねばならない。
夏休みの過ごし方については色々思うところがあるが、今の子は忙しいとはいえ、学校に来ないでいい分、自分で自由に使える時間は多くなる。その中で、スポーツを極めたければ練習やトレーニングの時間に当てたらいいし、英語力をつけたければ、好きなことに関する英語のYouTubeを見まくったらいいし、先ほども述べたが、「自分のやりたいこと」「自分の将来のためになること」「自分の成長につながること」「自分の進路実現に近づくこと」に貴重な時間を費やした方がいいはずである。
社会に出れば宿題は出してくれない。自分の頭で考え、今の自分に必要な課題を選び、勉強し続けないといけない。勉強し続け、自分をアップデートし自らを磨くことができる人材がどこでも重宝されることになる。そういう意味では、中学校時代に、自分にあった勉強の方法を身につけることができるのが理想である。勉強方法に正解はないし、人それぞれにあったやり方がある。以前にこのブログでテストのことを2回ほど取り上げたが、ミスについての捉え方、ミスしたところを次にできるようになる(改善)こと、自分のできていない所を勉強すること、できていない所とできている所を切り分けて整理すること、、、などができたら成績は伸びるはずだし、そういうことを自分で学ぶことが大切なんだろう。「できている所」だけに時間をかけて勉強し続けても学力は伸びにくいし、「できていない所」に伸びしろがあり、そこに気が付き、そこに時間をかけることができる子は学力も上がってくるだろうし、その積み重ねが将来役に立つものだと感じる。
結局何が言いたいのかわからなくなってしまったが、5月の学校だよりで、2年生に「社会を明るくする運動の作文」のことをアナウンスしたら、なんと10名もの生徒が連休の短い間に作文を仕上げ提出してくれた。その中から3名の作文を選び学校だよりで掲載したが、強制ではなく、自ら書いてみようと思って書いた作文はやはり気持ち、心がこもっており、素晴らしい作品が多かった。
今回の夏休みでも、浅田前校長の出したものと同じテーマの人権作文を募集しようと思う。強制ではない、宿題でもない、Teamsでも送らない。「書きたい」「書いてみよう」「チャレンジしてみよう」と思う生徒は、1階クラスボックスの一番右端の箱に、原稿用紙を印刷しておく(予定)ので、各自で取りに来て、学年、組、名前を書いて提出してみよう。担任の先生への提出でもいい、直接校長室に持って来てくれてもいい。生徒諸君の自主性に任せたいと思う。詳細は7月の学校だよりに掲載するので、そこで興味がわけばぜひとも挑戦してほしい。提出してくれた作文は必ず私が読み、人権協の担当者に責任をもって提出しますので。