今日は、3年生はチャレンジテストです。

 

昨日は猫さんマークの業者が午前中に段ボール15箱を搬入し、業務支援員の藤岡さんと、生徒指導主事の伊藤先生と教頭先生と4人で10クラスに分けて、放課後の3年生の先生方への説明に向けて2時間ほどかけて準備をしていました。何度もやっているので慣れてはきたものの、大規模校はやはり何をするにも大変です。

 

準備を終えて、授業の様子を見に教室へ。

3年生は実力テスト返却が主だろうから1,2年生の授業を見ようと階段を上っていったら、廊下の棚にiPadが放置されていました。また紛失で大騒ぎになると思って持って降りてきました。

  ※今日の読売新聞オンラインで「高校生のタブレット端末、修理費年間3176万円、紛失時期分からず被害届不受理のケースも」という記事があったけ  ど、自分のスマホでもなければ高価なものでも扱いはそんなことになってしまうのでしょうね。

 

1年生は応援旗や応援について取り組んでいました。2年生は国際の調べ学習をしていました。

「調べ学習」での端末の利活用は指導者側のスキル如何だなぁと考えさせられました。

学校が教科書を超えて勉強できるツールを手に入れたのに、そのツールの危うさも、データの真偽を照らし合わせる術も指導しきれていないのが今の状況です。これからを、そしてすでに今を生きる子どもたちにはそのことを教えることの方が、生きるための授業ではとも思います。中学生の「生活科」と言えるかもしれません。それを総合的な学習の時間にとなるのでしょうが、じゃあ行事に使う時間はどうするの?となります。

 

端末を使った調べ学習の指導の仕方も新しいことなのでなかなか隅々まで追いついていないのが実態だと感じるし、また端末を利活用しながらの新しい形式の教科の授業では、別段これまでのやり方を変えなくても不自由しないというのが正直なところでしょう。

そういうこともあってまず大学入試を変えて、高校の授業や仕組みを変えていこうとしているのですが、高校入試が今までのやり方でもそう変わらないので遅々と進まない(変わらない)。しかし、今年度でも全国学テで「話すこと調査」が始まったように、MEXCBT(メグビット)は、そのことに時間をかけて考えないままにどんどん進んでいっています。

 

何をどう教えていくかということや、それが本当に力として身につくのかということの検証する間もないまま(している間にまた時間がかかるので歩きながら考えざるをえず)、どんどん進めていくのが果たして正解なのか。そこから、こうした端末にアレルギーを持つ人が一定数存在することは十分に理解できるものの、しかしながら、もう逆行できないなら積極的に利活用しながらルールや先程述べたようなことを教えていかないと、活用した教育を推進している諸外国や積極的に取り組んでいる学校とはどんどん格差が広がるわけです。確かに使いこなせることが力なのだというのも頷けるのですが釈然としない。

 

それにしても、やたらとテストばっかりしてその次の授業時間には解説をして…。3年生なんて授業日数のうち一体何日何時間をテストに費やしているんでしょう。

力をはかることや検証は大切なことです。しかし、はかる前にいつ入れているのやら。

個人的には、「教育」を食い物にするEdTech(エドテック)には少し警戒しておいた方がいいのではと感じている昨今です。

 

端末を一人ひとりが持つ、ネットで繋がる、それによって時間や空間を超えることができる、昔こんなことを学校でやりたいなと思っていたことができるようになっています。

個別に最適なことを提示できる手段は確かに手に入り、用意された多様な教材や方法を選択して、その人のペースで学びを深められる。明治5年に学制が交付されて150年が過ぎました。寺子屋が進化した一つの箱に80人をすし詰めにして知識を詰め込むやり方は変われる時が来たのです。

未来を生きる生徒らに何を与えるべきなのか、再考し対話すべき時が来ています。

でも、いちばん大事な、その時間が生み出せないのが悔しいです。 これも言い訳なのかな。