そして、話したいことがまとまり切らないまま終業式の朝を迎えた。

校務支援PCでメールを開くと、市内の他中の校長から事務手続きの連絡のメールが届いていた。連絡文の最後に、「未だにそんなん言うとんのか!と思われるの覚悟で。ほんまに終業式等の講話がイヤです、すみません。」と書いてあった。

何で僕に謝るんと独り言ちながら、だよねぇと呟く。

 

終業式に相応しいかはともかく話す軸はこんなふうに考えていた。

「食品ロス」「人を傷つける言葉」についてだ。

 

きっかけ、それは先週だったか、校舎を歩いていて給食配膳員さんに話しかけられたことに端を発する。

その日の給食はパンだった。すごい量のパンが積んであった。45リットルのゴミ袋4袋分に相当するとのこと。

「昨今は持って帰ったらアカンことになってるけど、個包装だしねぇ、あまりにもったいない。これなんか封も切ってないのがこんなにあるんですよ」と怒りとも悲しみともいえない誰にするでもない講義の話は続く。

「昨日廃棄した牛乳は43キロでした」。

そう、配膳員さんたちは残飯を計量し、毎日市教委に報告しなくてはいけない。

43kgは、200mlのパックひと箱の牛乳を水に換算したら5パックで1kgとして、実に215パック。3割以上の生徒がほとんど手つかずに残し、それを捨てたというのだ。

毎日大量の残された給食を捨てる、配膳する人たちのその時のやり切れない気持ちは想像に難くない。

お米も、おかずも、好き嫌いで日によるらしいのだが、やはりすごい量の残飯なのだそうだ。

「罰あたりますよね」「そうそう、昔は親や爺さん婆さんに言われたね」「目が潰れるとかね」と昔話に花が咲く。

それから週が明けて生徒会執行部の生徒たちと話すことがあって、その時の話に触れた。

 

誇れるのが、やれとも言っていないのに行動を開始する執行部の生徒たちだ。志が高く、そして心根が優しい。

その時に感じたことを終業式の、校長の話、生徒指導の先生の話、部活動の表彰、その後に執行部からの話の時に訴えたい言ってきたと顧問の先生から聞く。

それなら校長の話で少し前振りをしようと思ったのだ。

 

もう一つ話そうと思ったのは、昨日も学年集会でそれぞれの学年で話題に上った「(SNSなどで)人を傷つける言葉」だ。

意識的か無意識かは別として、傷つける言葉や汚い言葉が少なからず飛び交う現状。

誰しも良いこととは思ってはいないだろうが使ってしまうのだ。考えさせるにはどういうアプローチがいいのか、思いめぐらせていた。

 

頭の中で話の構成が整わないまま出番までの時間が迫ってきた。

こうした構成が整わない時は、現場(ここでは生徒の営みの近く)に行くと言いたいことを繋ぐキーワードが浮かぶことが多い。

 

大掃除をしている校舎内を徘徊することにした。

本校では、1時間目に授業、そして大掃除、終業式、そして通知書等を配り担任から連絡する終礼という流れになっている。

 

みんながみんな一生懸命に、熱心にというわけではないが、先生と一緒に頑張っている。いい光景だ、普段していないところを念入りにしている生徒も結構いる。手元を見る視線がいい。

 

閃いた。「神様」「霊」の話で繋ごうと。

 

そうと決めて、校長室に戻る前に、掃除用具を片付けている用務員さんに、「生徒ら、大掃除よく頑張ってるよね」と声をかけたら、「ちょっと前はもっとすごかったかな…」とのさびしい呟き。

(そうなのかぁ、以前はもっとか)と考えていると、さっきの閃きは消えそうになる。

 

タイムオーバー。

今回は、取り留めのない締まりのない話になるなと覚悟を決めて、体育館に向かった。

 

概要はこんな感じだ。

大掃除お疲れ様でした。この年末の大掃除は、古くは歳神様を迎えるための行事だった。

日本には実に八百万(やおよろず)、800万もの神様が至る所にいて、歳神様は新年を幸せにして、家を守ってくる神様と言われていた。

長い2学期が終わるけれど、それぞれ振り返ってどうだったろうか。

今日はクリスマスイブ。昔は、クリスマスケーキ、そして節分の巻きずしがその日を過ぎるとたくさん売れ残り、食品ロスが大きな話題となった。

先日、校内を歩いていて給食配膳員さんから大量の残飯の話を聞いた。牛乳を43kgも捨てた日もあったことも。どう思うか? 43kgって200人位が残したわけだ。

昔は、食べ物を粗末にすると「(神様の)罰が当たる」とか「目が潰れる」なんて言われた。目が潰れるって、目の不自由な人を愚弄しているわけではない。

きっと「大切なものが見えなくなる」ということを、直接的な言い方をしたのだろう。「人の努力や頑張りに気づくことができなくなり感謝の気持ちがなくなる」ことを例えていたのだろう。

アレルギーで食べられない物がある人がいるのは知っている。そうではなくて、単に嫌いだ、不味い、冷たいと言って簡単に残すのはいかがなものか。

食べ物の好き嫌いは、人の好き嫌いに通じるものがあるように感じる。

まず食べてみる(受け入れる)ことで気づくこともあり、人としての栄養になることもあるのではないか。

昨日の学年集会で「人を傷つける言葉」がどの学年でも話に上がっていた。

「汚い言葉」を使うのはやめにしないか。何も考えずに簡単に言葉を使うものではない。

SNSも然りだ。

日本では古代、1400年以上も前から、「言霊(ことだま)」の存在を信じていた。

言霊とは、言葉には魂があって、発した言葉どおりの結果が現実になると考えられていた。

食べ物も、言葉も大切にしよう。

けじめをつけて新たな気持ちで新しい年を迎えよう。

勉強するのは、個人的には夢を実現するために、そして全体では平和で安全なコミュニティを作る「市民」となるためにしているのだと思う。

今年、君はどれだけ成長できたか? 君たちはもっともっと成長できる。来年はさらなる飛躍を期待している。

 

こんな感じで話したが、少しもキレがなかった。

具体を示そうと、給食のお米やパンが40円、おかずが210円、そして牛乳が60円という価格のことや、トイレットペーパーが1巻70円で年間1800巻くらい使うこと、海外での戦争にも触れて、横道に逸れ過ぎた。

 

毎回訓話の後は自己嫌悪が激しいのだが、今回はただただ長かったこともあり、どんより沈んでいた

 

救われたのは、自ら行動を起こして配膳員さんたちに話を聞きに行った生徒会の執行部の一人ひとりが、しっかりと最後に具体的に報告して話を締めてくれたことと、早々に聞き取ったことをまとめて「生徒会だより」を作成し、それが終業式の日に配膳員さんたちの手元にわたり、「こんなことは初めてで、いいクリスマスプレゼントをもらった」とわざわざお礼を言いに来てくださったことだ。

 

 

今日は仕事納めの日、もう学校が終わるというのに、消費者庁から文科省、府教委を経て、市教委から外食時の食品ロス削減に向けた啓発の周知が来ていた。

それによると、最新の食品ロス量(令和5年度推計)は464万トン。そのうち外食産業からは66万トン、家庭からは97万トン。毎年、12月から翌1月までに宴会やパーティなどの外食の機会に向けて料理の食べきりを促進しましょうとのことだ。

 

昔は疫病が流行るアフリカや紛争地域の飢えた人々へ思いを寄せたりしたが最近はもっぱらそうしたニュースが目に飛び込んでくる量が圧倒的に少なくなった気がするが気のせいだろうか。

さて、国内にも決して裕福な人ばかりではないだろうに、またお米の値段や物価高のニュースは頻繁に見聞きするけど、この飽食の日本のありさまを見ようとしないのは、見せようとしないのは、なぜなんだろう。決して子供に向ける話だけではないと思うのだ。

 

給食無償化が来年からまず小学校で始まるけど、タダだと思ったらあの雑な振る舞いがまた横行しないのかなって心配になってしまうのです。