終業式前日には恒例の学年集会だ。

議員が中心になって進めてくれて、各議員からクラスを振り返っての話、そして専門委員会からの話、執行部からの話と続き、最後に先生方からの話で締めくくられる。

 

 

1限目から2年生、3年生、1年生の順で集会はあり、ベテランの先生もまだまだ経験の浅い先生も、いろんな角度から話があった。

 

 

まずは1時間目の2年生。

久野先生からは、学期末に実施した二者懇談で、みんなが改めていろんなことを考え悩んでいることを知ったのでもっと話を聞かせてほしいという話だった。

たしかに昔と比べて、対面して話すということが学校の中でかなり減っているとは感じる。

かなり昔の話になるが、週休二日になる前の土曜日の午後の、行事前などのあののんびりと力が抜けた感じでクラスの生徒と過ごした時間が懐かしい。 

今なら部活動の時間がそんな生徒とのやり取りの時間なんだろうか。休職の時間なのだろうか。少し違うような気がする。

 

 

中島先生からは、この一年自分で勉強してきたことの紹介があり、同僚とはいえプライベートなことを聞くことは少ないので、改めて「そんなに勉強をしてたんだぁ」と感心した。

中島先生から子供たちへ「自分に合った勉強法や、内容を考えて勉強するんだよ」という語り掛けを聞いていて、「何が自分に合っていて、何がわかっていないかを考えられない」から、子供時代は大人と違って難しいんだよなぁと考えていた。決して批判的にではない。

「好きこそものの上手なれ」ではないけど、「熱中できる好きな事はこれだ」というものに出会わせてあげられる広範囲の指向性を持った、水先案内人となれる「興味のアンテナ」を高くする努力がこれからますます教員には求められるかもしれない。

でも、教員が自分の教科の専門性を発揮して面白さを、上手に興味を引くように提示すれば、一人の教員が何でもできなくてもいいわけだ。中学には9つの教科の専門の教員がいるのだから。

目先のテストのためではなく、その教科の面白さを、実際に生活している社会とのつながりとかを「へぇ~」と思わせられたらいいんだけどな。

校長になって授業を見て回っているとあらためて「そういうことなんや」と興味がわいてくることが多いのだが、そこには大人だから知っている知識があって興味が広がるのだから、子どもにその足りない部分をどう伝えるかに授業者の資質や力量や勉強が必要なのだと、中島先生の話を聞きながら考えていた。

 

 

生徒指導面で冬休みの過ごし方を星加先生と都甲先生とからと二人が紹介されたので、二人で漫才でもするのかと思っていたら、一人ずつだった。

 

まず星加先生は、自分の好きな映画監督スピルバーグの映画の作り方が、最後の終わり方を考えてから逆算しているということから話が進んだ。

ETやバックトゥーザフューチャーをスピルバーグの代表作と紹介していたけれど、生徒たちは知っていたかなぁ。先日TVでやっていたけどETは1982年の映画です。

最近つくづく思うのは、まさにこの「ジェネレーションギャップ」だ。話題の「共通項」があまりにも少なくて、20代の先生たちは特にZ世代だからオールドメディアなんて見ないわけで取っ掛かりが少ない。

星加先生は別段、映画の話がしたいわけではないので、それはそれでよかったのだが、我々昭和世代は「ちびまる子ちゃん」がまさにストライクで、お楽しみの共通の話題は昨日のテレビだったし、歌謡曲だった。

星加先生は2年生の2学期が終わって、中学生活ももう折り返しを過ぎている今、「どうなりたいか」というゴールを決めて、そして「いま何をすればいいのか」を「逆算」して計画的に過ごしてほしいという、スピルバーグの映画の作り方がここに通じるのかぁと感心しながら聞いていた。

 

 

続いて登場した都甲先生は、なんだかいつもと違って元気がない。

「ん⁉ どうした?!」って感じだ。もちろん心配するほどではない。きっと前の3人の話を聞いて、話の切り口に悩んだのかもしれない。

たくさんお金を持つこの時期は注意を促さなくてはならないが、ここで都甲先生の人柄が出る。

「お金の貸し借りなんてするものではない」(そうだ、そのとおりだ!)

「冬休みはというより、お年玉とかを渡す人の気持ちを考えたら、貸し借りなんてできるかな」と切り込んでくる。

彼の温かさはこういうところだ。生徒もそこは理解している。普段よりも訥々(とつとつ)とした話し方だったが、話し終わった後の生徒からの拍手の大きさが、きちんと心にまで伝わったことを表していた。

 

 

続いて2時間目は3年生。

トップバッターの早﨑先生からは、昔の教え子と昨日食事に行った話から始まった。

終業式前日に余裕あるなぁと思ったが、もしかしたら実際は少し前なのかもしれない。

その教え子は、中学生時代は学校に来にくい生徒だったけど、高校に行ってからある人との出会いで自分から一歩を踏み出し、そのことによって人生を変えたという内容だった。  

そこから早﨑先生は「人のせいにしてる間は、成長しません」と言い切り、「いくらでもやり直しはきく。思いついたらそこがスタートだ」といういい話だった。

先生というこの仕事の醍醐味は、人の人生、成長に関われることだ。人にはたくさんのドラマがある。

 

 

進路担当の松村先生からは、三者懇談も終わり方向性が決まって、この冬休みにしておかなくてはいけない事務手続きなどの大切な話から始まった。

しかしなんなのだろう!? 先ほどの早﨑先生の話の時もだけれど、何人もが振り返って体育館後方の時計を見る。

全体的に聞き漏らさないでおこうという緊張感がない。

試験日当日、受験生を一堂に集めて説明する学校もあるというのに「大丈夫なのかなぁ」と感じていたら、「他人事ではないですよ」とビシッと喝が飛んだ。さすがに締め方を知っている。

 

 

トリの松原先生からは、前回の集会で話された「4つの気」の話の続きからだった。

「4つの気」とは、「元気」「やる気」「本気」「根気」の4つなのだが、今回は最後の「根気」の話だった。

根気とは我慢だ、成長するには「負荷」をかけないといけない。ストレスという負荷に我慢ができないのでは成長はない。

松原先生はスポーツで生きてきた人である。体育の授業の経験を交えながら話に哲学がある。私はこういう話、割と好みである。

さて、良くない「ノリ」が原因のトラブルが多かった2学期の生活を振り返って、話は続く。

「その場のノリ」とか「ノリ悪いなぁ」ってよく言うが、「そのノリは誰かを傷つけていないか? それで後で後悔しないか?」と鋭い口調だ。

締めは「ノリに流されていくのを止められる力をつける三学期にしてほしい」という言葉だった。

こういう話を聞くと、学校生活というのは「集団」を学ぶところだ、そういう装置だと痛感する。

子供たちは、また冬休みを過ごすときっと忘れることだろう。そして、また螺子(ねじ)を巻くのだ。人となる日の備えとして何度も「こうあるべき」という話を聞く。

 

 

最後は1年生、3年生を見た後ではまだまだ子どもである。

はじめに話した尾部先生からは、阪神タイガースがリーグ優勝した大きな要因が、藤川監督が掲げたスローガン「凡事徹底」にあり、エラーが減ったことにあるのだという、数学の先生ならではの話だった。

凡事徹底とは、あたりまえの事を徹底すること。いわゆるコツコツ積み上げていくということだ。

年配の先生のひとことは、経験の重みを私などは感じたのだけれど、生徒にはどう響いただろうか。

「一挙に」「いっぺんでたくさんを」なんてことにばかり頭を使って、効率を考える時代にあっても、やはり基本は「一つずつ」である。

 

 

北原先生からは、行事の多かった2学期を振り返りながら、最近学年で頻発しているSNSトラブルに触れ、自分の発言に「責任」を持てない人が多いと自制や自省を促した。

そして、3学期に特に行事のない1年生は、この2学期経験して得たことをどうつなげるのかと、陸上競技の三段跳びにたとえて、次につなげる3歩目にしていかなくてはならないのだぞと、これまた体育の先生らしく1年生に届く言葉で語りかけていた。

 

 

3時間連続で学年集会の話を聞いて、まずは「みんな先生だなぁ」というのが正直な感想だ。まさしく「訓話」である。

それぞれの学年のカラーみたいなのも強くあるし、また話す人のその人となりも随所に現れていて、聞いていて楽しい。

 

 

めっきり子供と話すことも減り、校長って(どうあるべきなの)?って感じでいまだに距離感が掴め切れていない自分はこの後、悩むのである。

 どうせ身近な存在でもない校長の話なんて大して聞いていないだろうけど、だからって生徒の心に届かないのは悔しいし、何より正直なところ、生徒たちの横に後ろに立っている先生たちにあれだけの話をされたらってことも意識してしまうのだ。

 締めくくりの話なのだ。2025年が終わるのだ。長かった2学期が終わるのだ。一人くらいの記憶に残る話がしたいじゃないか。

そうして一人で勝手にハードルを上げて、ああでもないこうでもないと悶々としていくのであった。