平安時代からあり、庄内や庄本といった地名の由来ともなった荘園「椋橋庄」(くらはしのしょう)

 本校校区の庄本町にある椋橋総社(くらはしそうじゃ)には、鎌倉時代、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)

の寵愛(ちょうあい)を受けた亀菊(かめぎく)という女性があつく信仰していた亀菊天満宮(かめぎく

てんまんぐう)があります。

 亀菊は、後鳥羽上皇からこの椋橋庄の一部を与えられていましたが、鎌倉幕府が置いた地頭との間で

争いが起こります。この争いが一つのきっかけとなり、承久3年(1221年)に朝廷と幕府の戦い、

「承久の乱」にまで発展しました。

 戦いに敗れた後、亀菊は後鳥羽上皇とともに配流地の隠岐(おき)に渡ったとされています。

 「承久の乱」は、歴史の教科書で必ず太字で出てきて、日本全国の児童・生徒が学習する重要な

歴史事項ですが、この椋橋庄が発端となりました。

  椋橋総社(くらはしぞうじゃ)       亀菊天満宮(かめぎくてんまんぐう)