承久の乱の発端ともなった椋橋庄
平安時代からあり、庄内や庄本といった地名の由来ともなった荘園「椋橋庄」(くらはしのしょう)。
本校校区の庄本町にある椋橋総社(くらはしそうじゃ)には、鎌倉時代、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)
の寵愛(ちょうあい)を受けた亀菊(かめぎく)という女性があつく信仰していた亀菊天満宮(かめぎく
てんまんぐう)があります。
亀菊は、後鳥羽上皇からこの椋橋庄の一部を与えられていましたが、鎌倉幕府が置いた地頭との間で
争いが起こります。この争いが一つのきっかけとなり、承久3年(1221年)に朝廷と幕府の戦い、
「承久の乱」にまで発展しました。
戦いに敗れた後、亀菊は後鳥羽上皇とともに配流地の隠岐(おき)に渡ったとされています。
「承久の乱」は、歴史の教科書で必ず太字で出てきて、日本全国の児童・生徒が学習する重要な
歴史事項ですが、この椋橋庄が発端となりました。
椋橋総社(くらはしぞうじゃ) 亀菊天満宮(かめぎくてんまんぐう)
登録日: 2015年6月4日 /
更新日: 2015年8月5日