洲到止渡し場(すどうしわたしば)の跡碑
豊中市と大阪市の市境を流れている神崎川には、昔、
両地方を結ぶ街道の渡し場として「小曽根(おぞね)の渡し」
「三国(みくに)の渡し」「洲到止(すどうし)の渡し」などが
ありました。
洲到止渡し場の跡碑(大島町3丁目10)
当時、年貢米や商品を運ぶ牛馬や人びとを対岸に渡して
いました。
渡し場は、もとは洲到止八幡宮(すどうしはちまんぐう)
の南側、用水路を板橋で渡ったところにあったと伝わって
います。
天明3年(1783)の旧洲到止村(すどうしむら)の記録には、
「脇道渡シ場」(わきみちわたしば)とみられますが、このあたり
では、神崎川には大小の中州があり、枝わかれして流れて
いたり、治水や農地開拓の土木工事もたびたび行われている
ため、船着き場は、地形の変化にあわせて移動してきた
可能性があります。
対岸の旧三津屋村(みつやむら・大阪市淀川区)からは、
大坂(高麗橋)と西宮を結ぶ中国街道へ出ることができる
交通の要所でした。
大正9年(1920)に、阪急神戸線が開通し神崎川駅が
できたためにここに移り、当時は往復2銭で通えたと言います。
昭和10年(1935)に、神洲橋(かみすばし)の完成で公設の
渡し船は廃止となりました。
神洲橋と阪急神戸線 神崎川
登録日: 2015年7月30日 /
更新日: 2017年5月15日