熊野田小学校に3(第8話)
熊野田小学校に
(3)100歳をむかえる学校
「校歌がほしい・・・」という声が年ごとに高まり、昭和42年(1967年)3月13日に制定【せいてい】されました。作詞は豊中市にゆかりの深い安田青風先生に、作曲は加藤直四郎先生にお願いしました。校歌の中には一人ひとりを大事にする民主教育への願いが込められています。
その翌年に、緑のまる屋根【やね】のりっぱな体育館が完成しました。
昭和45年(1970年)8月に、鉄筋3階建ての校舎2号館が完成し、第二給食センターが建てられたことによって、給食調理室が配膳室【はいぜんしつ】に改造【かいぞう】されました。翌年の8月に1号館の特別教室が完成したことにより、今の学校の姿【すがた】がほぼでき上がりました。
昭和45年(1970年)、万国博覧会が千里丘陵【きゅうりょう】で開かれる頃は、日本の経済も大きく発展し、豊中市全体の人口が増えていき、児童数も増えたため新しく学校ができました。それによって通学区域も変更され、熊野田小学校から分かれた泉丘小学校や他の学校へ行く人、逆に熊野田小学校に来るようになった人もいました。
車から子どもを守る
千里ニュータウンの宅地造成などのため、府道(堺布施豊中線)の交通量が日増しに増え、児童の通学がたいへん危険になってきました。
神崎刀根山線の道路の整備が進み、昭和41年(1966年)に待望の横断歩道橋が府道に架けられ、子どもの登校の危険が少し減りましたが、神崎刀根山線が完成すると、この線の交通量が増え、危険はまだ去りませんでした。
昭和43年(1968年)に、神崎刀根山線にも、立派な歩道橋が完成し児童の登校の安全が守られました。
登録日: 2008年7月24日 /
更新日: 2008年8月1日