小学校の誕生

 明治の初めは、日本にヨーロッパの進んだ文化がたくさん入ってきて、世の中が大きく変わりました。外国の文化が大変進んでいるのを見て、国をあげて早く外国に追いつこうと一生懸命【いっしょうけんめい】でした。そこで、明治5年(1872年)、誰でも6歳になると小学校で勉強できる制度ができました。(学制発布【がくせいはっぷ】)

 明治7年(1874年)4月1日、熊野田村に豊島郡第二区二番小学校ができ、佛眼寺【ぶつげんじ】の観音堂【かんのんどう】を仮校舎にし授業がおこなわれました。子どもたちは、めいめい自分の家から座敷机【ざしきづくえ】を持ち寄り、勉強道具を風呂敷【ふろしき】に包んで学校に通っていました。翌々年【よくよくねん】からは、専宗寺【せんしゅうじ】の本堂を借りて勉強しました。

  明治11年(1878年)8月、専宗寺の西側にりっぱな校舎が村の人の手で建てられ、熊渓小学校【ゆうけいしょうがっこう】とあらためられました。

 明治22年(1889年)に町村制がしかれ、このあたりは豊島郡熊野田村となり、その4年後の明治26年熊野田尋常小学校【くまのだじんじょうしょうがっこう】と名前が変わりました。

電車が走った

 かごや馬に代わって、人力車が明治13年(1880年)に走り、乗合馬車が岡町から北野(今の阪急梅田付近)までお客を運んでいました。明治29年頃は、岡町の原田神社前から、5台の馬車が1日1往復の割で能勢街道を走っていました。

 やがて、小林一三氏が箕面・有馬電気軌道(今の阪急電車)をおこし、明治43年(1910年)3月10日、梅田から箕面・宝塚線を開通させました。この時、服部、岡町に停留所ができ、村の人々は珍しいので岡町まで電車を見に行きました。続いて、蛍ヶ池、曽根の停留所ができました。その頃の村の人口は1,500人ほどでした。