熊野田校区をてくてく歩くと、いろいろな歴史とふれ合うことができます。今回は、栗ヶ丘町から中桜塚5丁目に向けててくてく歩く感じで紹介します。

栗ヶ丘から中桜塚方面の案内ルート

道標(上野東1丁目)

道標1道標2

 道標には、仏像のようなものが彫られています。これは「行者さん(ぎょうじゃさん)」で親しまれている「役行者(えんのぎょうじゃ)」の像です。役行者は、平安時代の終わり頃から修験道(しゅげんどう)の開祖として信仰をあつめました。道標の下に「熊野田村 世話人 大峯講中(おおみねこうちゅう)」とあり、この道標をたてた人びとが示されています。「大峯講」とは、旅費を出し合って大峯山で修行する人びとの集まりのことです。大峯山は厳しい修行地で知られ、かつて熊野田村の若者たちは、修行から無事に戻ってきてはじめて大人の仲間入りができたといわれています。

 道標から旧箕面街道を南にてくてく歩くと第三中学校が見えてきます。

 

第三中学校

豊中市立第三中学校  豊中市立第三中学校は、昭和22年(1947年)開校されました 。運動クラブが11クラブ、文化クラブが8クラブあり、熱心に活動しています。

 OBには、作曲家・ピアニストの加古隆さんがおられます。ちなみに熊野田小学校も卒業されています。

 手塚治虫さんは、亡くなられる前年、病気をおしてこの第三中学校で講演をされています。

「手塚治虫、最後の伝言」 昭和63年(1988年)10月31日
 1.登場人物のモデルとペンネームの由来
 2.マンガがほめられた、万歳!!
 3.戦争はひどい、二度とご免だ
 4.かげろうの命、太陽の命
 5.神様の視点で地球を見直して
 6.まだ20年、30年、マンガを描きます

 

 道標(中桜塚5丁目) 

熊野田道の道標 原田神社から熊野田へ向かう道を熊野田道(くまんだみち)といいます。この道標は、旧熊野田道と旧箕面街道を交差する地点に建てられています。道標にはこのようにしるされています。

 東側 「すぐ桜塚 尼崎へ」

 南側 「すぐみの かつを寺」

 西側 「すぐ柳谷 京へ」

 北側 「すぐ服部 大坂へ」

 (注)「すぐ」というのは、「まっすぐ」「一筋道」という意味。

 この道標から西側の熊野田道は、昭和9年(1934年)~昭和15年(1940年)にかけての土地区画整理のために今は姿を消しています。東側の道をてくてくと歩いていくと、坂があります。

 

宮の坂

宮の坂  旧熊野田道の中桜塚5丁目の道標から第三中学校体育館の前の辺りまでの坂道を「宮の坂」といいます。その昔、熊野田村の八坂神社の獅子(雄)と桜塚村の原田神社の獅子(雌)が秋祭りの際に、村の境界で対面されたといわれています。そのことを宮逢(お見合い)といわれ、その坂を宮逢坂(みやんざか)と村の人びとに呼ばれていました。そして、いつしか「宮の坂」といわれています。

 この熊野田道は昔、いたってものさびしいひなびた田んぼ道で、広い所でも荷馬車が一台やっと通れるほどの細い道。特に「宮の坂」は交通の難所だったようです。この辺りは、竹やぶでキツネとタヌキが住んでおり村の人をあの手この手とよく化かしたそうです。昭和10年(1935年)をすぎても化かしに出るという噂があったようです。岡町から熊野田小学校に通勤していた女性の先生は、往復ともキツネに化かされないようにとおまじないに小石を3つ拾って和服のたもとにいれていたという話があります。