戦争も終りに近づいた頃、大阪では空襲が日ましにはげしくなり、人々の生活はきびしく不安な毎目でした。でも、小曽根に爆弾が落ちるとはだれも思っていませんでした。

昭和20年6月7日午前11時頃、実だん11発、不発だん1発、吹田の日本アルミ寮を入れると34発の爆弾が落ち、幼い子どもをはじめ、17人もの人達の尊い生命がうばわれました。

亡くなった人達は養照寺に運ばれ、ローソクの下でお通夜が行なわれました。村の人は亡くなった人のどろだらけになっている体をきれいにふいてあげました。

6月9日、高川の堤防へ運んで行き、こわれた家の木材を積み重ねて、その上にならべ火葬にしました。子どもを失くした人たちは、40年たった今でも小曽根の子ども達が元気にあそんでいる姿を見ると、あの時のようすがきのうのように思い出されるそうです。