てくてく歴史散歩5・熊野町3丁目~4丁目へ
熊野田校区をてくてく歩くと、いろいろな歴史とふれ合うことができます。今回は、熊野町3丁目 から熊野町4丁目方面をてくてく歩く感じで紹介します。
第十五中学校
昭和54年(1979年)に 開校した第十五中学校。平成20年(2008年)創立30周年を迎えました。ビオトープの再生も行われ学校の新しい名物となっています。新ビオトープは、約240平方メートルで、ひょうたん型の池や水田、樹木などがあります。卜ンボや水草の観察など理科の授業で活用したり、憩いの場や団らんの場になっています。
八坂神社
第十五中学校のすぐ近くに八坂神社があります。
熊野田の八坂神社は、いわばミニ熊野といわれる「熊野系」の神社です。紀伊の熊野三山と同じご利益があるということで多くの参拝者がありました。また、瘡〔くさ〕(できもの)の神として遠くからの参拝者も多かったようです。
天正年間(1573年)、織田信長に抗戦していた伊丹の荒木村重の兵戦によって社殿は破壊され、記録をはじめほとんどが散逸し、神社の領地もなくなりました。長らく仮の社殿でしたが、江戸時代の慶安2年(1649年)に現在の場所に再建さました。明治時代に入り、新政府は神仏分離令という法律を布告し、明治3年(1870年)に「葛上神祠(くずがみしんじ)」から「八坂神社」へと名前を改めました。(京都の「祇園社」が「八坂神社」に改称したのは明治4年のことです。)
豊中市指定無形民俗文化財に指定されている八坂神社の獅子神事祭は、承暦2年(1078年)熊野権現の獅子頭(ししがしら)と同様の2体を作成したのが始まりであるといわれています。この祭の保存と運営は、安永年間より明神講(みょうじんこう)といわれる氏子(うじこ)組織が携わり、毎年10月に行われています。江戸時代の延宝8年(1680年)に建立され豊中市域で最も古かった鳥居は、平成7年(1995年)の阪神淡路大震災で倒壊しました。現在、新しい鳥居が再建されています。
宝珠寺(ほうしゅじ)
八坂神社に隣接して宝珠寺があります。現在は浄土宗のお寺ですが、かつては真言宗のお寺でした。平安時代の寛和2年(986年)、花山法皇が河内石川寺の佛眼上人を先導者として観音三十三か所の霊場を巡礼した後、佛眼上人に畿内の霊地を選ぶよう命じました。この地が紀伊の熊野山に似ているということで、熊野三山と同じご利益が得られるという仏閣(当時は、神仏習合で寺社一体で信仰されていました)を長徳2年(996年)に創建しました。そのお寺が宝珠寺(地域では「観音さん」とよばれている)、社が葛上神祠(くずがみしんじ・後に八坂神社に名前を改めました)です。宝珠寺の山号を熊野代山と呼び、これにより村名を熊野代村とつけられ、後に熊野田になったといいます。
本堂は江戸時代中期のものですが、現在は外側を囲み覆っているので見ることができません。
勝尾寺街道(かつおうじかいどう)
勝尾寺街道は西国第二十三番札所の真言宗の勝尾寺(箕面市)に続く道。この勝尾寺街道は岡上の町から水道局の前を通過して熊野町に入っきます。街道沿いには昔の造りのままの建物が今でも残っていて、この辺りをてくてく歩いていると昔にタイムスリップした感じがします。
佛眼寺(ぶつげんじ)
神崎刀根山線の並木道
兎川(うさぎがわ)
水源は東豊中の深谷池で、三ッ池を経て熊野町1丁目八坂橋付近で、天竺川と合流します。名前の由来は、待兼山から島熊山にかけて野ウサギが生息し、水のみ場所となっていたことから名づけられたともいわれています。
中学校の校区は兎川を境に第三中学校の校区と第十五中学校の校区に分かれています。
熊野田村は、昭和11年(1936年)、豊中市に合併したお祝いとして、兎川の上野東側の堤防に桜並木を植えました。夏になるとたくさんのホタルが飛び交っていたようです。
<熊野田尋常小学校『松の緑』第参号より(大正自由教育の所産である作文集)>大正14年7月 蛍狩 4年女子
そろそろ蛍が出はじめました。私は夕方より友達をさそうて蛍狩りに出かけました。手には、蛍取や蛍かごを持って村をはなれてぶらぶらと野原を歩きました。「ホタルコイホタルコイ」と呼びながらあるいて見るとあちこちの草むらから蛍が火ばなの様にとんで来ます。私は持つてゐるなたねがらで、はたきおとそうとすると蛍の姿が見えなくなつたり又向ふの方で火をとぼしたりしてゐます。皆は走りまはつて二三匹とつてかごに入れ歌をうたつてかへりました。