てくてく歴史散歩1・赤阪1丁目~栗ヶ丘町へ
熊野田校区をてくてく歩くと、いろいろな歴史とふれ合うことができます。今回は、赤阪1丁目 から栗ヶ丘町方面をてくてく歩く感じで紹介します。
大風水害記念碑
熊野田小学校の中にあります。校舎の裏に建てられています。昭和9年(1934年)9月21日(金)に襲った室戸台風のために、校舎が倒れ下敷きとなって5人の児童と校長先生が亡くなりました。この悲しい出来事を永久に忘れないということで、この碑が建てられました。文章は当時村長だった石丸義雄さんが考え、字は助役の田中嘉治さん(後に豊中市長)が書いたそうです。今でも、地域の方がお花をお供えし、ご冥福をお祈りされています。
石丸梧平の顕彰碑
石丸梧平さんの胸像があります。その下に、「人生に結論なし ただ創造の一途あるのみ 意味は発見し得る者に輝く」と刻まれています。石丸さんの人生哲学だそうです。雑誌『人生創造』の愛読者が中心になってこの顕彰碑が建てられました。
深田與平次功労記念碑
石丸梧平顕彰碑のすぐ横に大きな石碑があります。深田與平次君功労紀念碑とあります。深田與平次さんは、第3代目の熊野田村の村長さんでした。
旧勝尾寺街道の栗ヶ丘から熊野町方面に向かう坂を「車坂」と呼んでいたそうですが、この坂が急な坂で、しかも細い道であったので、村の人びとは大変交通に困っていたそうです。そこで、村長の深田與平次さんは大阪府に一生懸命働きかけて、この坂の勾配をゆるやかにする工事を行ったそうです。村の発展に多大な貢献をしたということで、その功績をたたえて、明治35年(1902年)、車坂が一望できるこの地に碑が建てられたということです。
通称「車坂」
旧勝尾寺街道の栗ヶ丘から熊野町に向かう坂を、熊野田村の人は「車坂」と呼びました。その昔、クルマタヌキが住んでいた所で、その坂に来るとタヌキに化かされていたそうです。そのタヌキにちなんで「車坂」といわれているということです。
深田村長さんの時、この坂の勾配をゆるやかにする工事をしました。今でもきつい坂だから、当時は相当きつい坂だったのでしょう。
道標(上野東1丁目)
この道が、小学校の校区の境となっていて、この道標が建てられている所はちょうど上野小学校の校区となります。この道標は、旧箕面街道と旧勝尾寺街道が交差しているところに建てられています。道標には、こんなふうにしるしてあります。
東側 「すぐ いたみ 中山 みち」
南側 「すぐ みのを山 かつをう寺 道」
西側 「すぐ 上新田 京 道」
北側 「すぐ 大坂 はっとり天神 道」
(注)「すぐ」というのは、「まっすぐ」「一筋道」という意味。
ここから北へ向かうと箕面へ。南へ向かうと大阪へ。また、ここから東へ向かうと、熊野田村の中、上新田を通って、勝尾寺や京都へ行くことができ、西に向かうと能勢街道と交差し、池田や能勢、中山寺に行くことができました。伊丹街道にもつながっていました。
昔の写真が残っているので見てみると、周りは田んぼばかりで家がまったくなく、今とはぜんぜん違っていてびっくりです。