地域開発に当たられた牧野庄太郎さん(当時(株)牧野組会長)の話

 「私の出生地である豊中を立派な良い町に育てていくのが、私の若い頃からの夢でして、昭和2年からこの仕事を始めました。

  阪急の創始者である小林一三先生との出会いもあり、豊中を阪急沿線一の良い町にしようと思っていました。

 昭和27年頃、私は終生の仕事としてこの地を開発しようと発起しましたが、当時、小林一三先生すら反対されるような未開の土地でした。手をつけ始めると次から次へと難工事にぶつかり、指揮者の私自身が体を張って工事に打ち込んだものでした。日曜日も祝日も忘れるくらいでした。

 山や谷や起伏も多く、また、谷は地盤も軟弱で予想を超える難工事でした。進入路も上野8丁目付近から島熊山のトンネルを通ってくる道一本が頼りでしたしね。

 しかし、優れた環境の町づくりが夢でしたので、土地の区画設定計画にも細心の神経を注ぎました。

 この島熊山一帯は、万葉集にも歌われてた由緒ある山野でしたので、これが私の気持ちをなごませ、支えもしてくれたように思います。心をこめて町づくりをすすめようとね。

 住宅地として姿を現しはじめた頃、丁度、昭和37年頃にまず最初に、この地に工事の安全と住民の安寧・発展を祈願して豊中不動尊を建立しました。

 こうして町が姿を現しはじめますと本当に心の洗われる思いでした。人びとのいざなう道路に水銀灯を設置したりしたこともあってモダンな風情がただようそんな町として、遠くから多くの人びとが集まってくれました。

 そして、この土地の良さを口々に語ってくれましてね。

 そう、その時は、体から鉛のように重いものが抜けていく感じを味わいましたね。」

 

 開発によせる夢と情熱を語る牧野さんの眼は、輝いてあたたかさにあふれていました。

 

 

(左:豊中不動尊 右:万葉歌碑)

 

創立20周年記念誌『わたしたちのまち 少路』(1994年発行)より