開発されたころの少路

 私たちの校区は、豊中の町を見おろす豊中でもいちばん高い島熊山山頂(標高112.3メートル)、その北に連なる千里丘陵の最高峰 番小屋山(133.79メートル)近くにあるため、今でも、春にはウグイス、夏にはアカゲラ等の鳥たちのさえずりが聞こえる緑豊かでのどかなところにあります。

豊中市北部の最後の開発区域

 このあたりは、1960年(昭和35年)から、豊中牧野建設株式会社(現 株式会社 牧野組)によって、東豊中住宅地に続く豊中市北部の最後の開発区域として開かれました。当初は、広さ約52ヘクタール(約16万坪)もの開発地として、始められました。

 開発されるまで、このあたりはの北西部は茶畑、梅や桃畑等、北西部にはアカマツを主とする山林として、深い峯や小さな谷がたくさん混在するところでした。今の清谷池公園は、元は清谷池(正しくは「正谷(しょうたに)池」と言われます)だったのですが、これよりずっと上手に登ったあたりに小盆地がひらけ、水田も少しあったようです。質のよい米がとれたそうですが、ヒルが多くいるいやな田であったとの話もあります。

むずかしかった工事

 すぐ近くの上野のあたりは、1933年(昭和8年)ごろから、住宅地として開かれました。電車の駅から遠く離れた地域が住宅化される最初だったのです。「山あり、谷あり、起伏の多い大自然を残した大住宅地」と宣伝され、別荘地風の住宅として売り出されたそうですが、この少路地域も、これらの住宅地として開発されました。

 ところで、私たちの校区は、はじめは山や谷も多く、田や畑もあったところでしたから開発はとても大変だったようです。

 1959年(昭和34年)島熊山のトンネルからしか工事に入れなかったこの地は、谷を埋め、崖をけずって、平地にする工事が大変でした。しかもジメジメとした粘土質のところが多かったりしたので、なおのことでした。

道路づくり

 次におこなわれたのが道路づくりでした。もともと芦屋市(兵庫県)の町並みをイメージした宅地開発でしたので、直線でゆったりとした道路が作られました。その道路に夜間も安心して歩けるように水銀灯がつけられ、おしゃれな町の雰囲気をかもしだしました。しかし、すぐにはバスは開通せず、しばらくは不便な生活が続きました。

 豊中駅 - 島熊山間にバスが開通したのは、1965年(昭和40年)でした。回数は、1時間に1回という少なさでしたが、それでも島熊山どまりだったので、ゆっくり座ることができたようです。

1965年(昭和40年)頃の緑丘を空から(少路小学校)

水(水道)を求めて

 電気や電話の公共施設は、比較的すぐに整いましたが、水(水道)をひくことはとても困難なことでした。ちょうど、豊中市のあちこちで宅地開発がなされていた時だったので、豊中市の人口も急速に増えつづけており、求められるだけの水を送ることが、とてもむずかしかったのです。そこで、開発にあたった牧野組は、今の永楽荘(内田水源地)に井戸を二本堀り、毎日2,000トンもの水をポンプでくみあげて、緑丘地区へ送り続けました。この井戸を利用した水道水は、約10年間続けられ、1964年(昭和39年)には、豊中市へ寄附されました。

 やがて1967年(昭和42年)5月に野畑配水場が完成してからは、この井戸の水も利用されなくなり閉鎖されました。今は、淀川の水を府から買い入れている豊中市水道局の水を利用していますが、開発のころは、こんな大変な苦労があったのですね。

住宅建設は西へ

 住宅建設は、1952年(昭和37年)に不動尊寺が完成すると、徐々に西の方へ広がりました。昭和40年代に入ると、建設も急速に進み、あくる年には、数十戸もの入居者がありましたが、この頃はまだ、大字少路という地名でした。

 現在の町名になったのは、1969年(昭和44年)の区画整理による町名変更でした。それ以降は、住宅建設のたびに町名変更といなっているものが多いです。

 西緑丘の住宅建設は、1971年(昭和46年)ごろより始められました。ちょうど野畑配水場の西側あたりから、南側へ広がっていきました。地名は大字野畑といいました。

1973年(昭和48年)開校当時の第十一中学校(豊中市広報戦略課)

 

創立20周年記念誌『わたしたちのまち 少路』(1994年)より