太平洋戦争のころ

    昭和12年(1937年)7月7日、中国と戦争がおこり、昭和16年(1941年)12月8日にはアメリカ、イギリスとも戦火を交えました。学校も戦争の渦【うず】にどんどん巻き込まれていきました。戦争がはげしくなるその年の4月から、これまで国民に親しまれてきた小学校の名前が国民学校に改められました。熊野田小学校は、お宮さんの名前を付けた、八坂国民学校という名に変わりました。教科書も戦時用の内容になりました。

 

戦争が激しくなると

 ランドセルやバンドなどの革製品が姿を消し、ガソリンがなくなり、自動車は木炭をたいて煙を出しながら走っていました。服もそまつになり、学校へは下駄やわらぞうりを履いて登校しました。また、食べ物が足りないので、運動場や空き地を耕してサツマ芋を植えたり、どんぐりの実を拾ったり、いもの葉・セリなどの野草を食べました。

  昭和20年になると、豊中も空襲を受けるようになりました。たくさんの爆弾や焼夷弾、艦載機の機銃掃射をうけ、大阪市内は焼け野原になり、家を焼かれ、たくさんの人が亡くなり、ケガをしました。