古い歴史に支えられた緑丘

 校区は豊中市の北東部にあり、市内で一番高い丘陵地であります。以前は赤松を主とした雑木の生い茂る山林でありました。麓には竹やぶがひらかれ、谷間にはわずかの水田もありました。山では秋、香り高い松たけがとれ、竹やぶでは春、味のよい竹の子が出ました。また水田では特別上等のお米もとれました。

 地層は粘土と砂とが交互に重なっている古期洪積層、大阪層群に属し、100万年近い大昔に出来上がったと考えられています。

 ところで、この山の持主はどこの人であったのでしょう。それは主として豊中市大字少路(桜の町)、大字野畑(春日町)の農家の人たちでした。今から116年以前すなわち江戸時代は、野畑、少路、内田、柴原、刀根山各村の共有の山で、たき木を取る場所でした。しかし村人は自由勝手にたき木とりをする事は出来ませんでした。毎年冬の一日をきめて、一斉にたき木取りをすることになっていました。平素は盗取りを防ぐために、見晴らしのよい峯に番小屋を建てて、山番の人が見張りをしていました。

 さてこの山を地元の人たちは、千里山と呼び、また東方にあるので東山と言っていました。この千里山は小さい峯と多くの谷があり、古い本には九十九谷あると書いてあります。谷には名がつけられていました。たとえば、乳母が谷、虎石谷、狼谷、鳩が谷、とび谷その他です。名のある峯は少なくて、島熊山(112.3メートル 東豊中浄水場あたり)、番小屋山(131.7メートル、緑丘3の29あたり)、三番峯(不動寺うらあたり)だけでした。

 特に島熊山は名高く、奈良時代の万葉集にも、

「玉かつま 島熊山の 夕暮に ひとりか君か 山道(やまじ)越ゆらむ」(作者未詳、三一九三)

とうたわれています。不動寺境内にこの歌碑が建てられています。

 この山の土は粘土質でしたので、今から1400年の昔には、この粘土を谷のわき水でこねて、うつわをかたちづくり、峯の斜面にトンネル式の、のぼりがまを造ってすえ器というその頃一番進歩した土器を焼いていた人たちがおりました。そのかま跡が今までに校区内だけで、12カ所発見されています。当時はあちこちで煙がたちのぼっていた事でしょう。

鹿島友治(当時 豊中市文化財保護委員、元豊中市立小学校長、郷土史家)

(少路小学校創立十周年記念誌『島熊山に育つ子ども ~21世紀に向かってたくましく生きる子どもたちのしあわせをねがって~』1985年2月、22・23頁)