小曽根の「西福寺さん」には、江戸時代の伊藤若沖という人が、ふすまに描いた「さぼてんぐんけいづ」という絵があります。

このふすま絵は、金をはった紙の上に、大きなサボテンを背景に、オス、メス、ヒナの、にわとりをかいたりっぱなものです。

この若沖を小曽根の人は、「斗米庵」さんとよんでいました。それは村の人がバケツ一ぱいほどのお米を持って行くと、心やすく絵をかいてくれたからです。若沖は自分の家の庭にたくさんの鳥を飼って、写生したり、魚貝やこん虫などを描くのが好きだったそうで45才から本格的に絵の道に進みました。この若沖の才能を認めた薬問屋の吉野五運のすすめで半年かけて完成しました。

今、この絵は重要文化財に指定され、48年に記念切手にもなり、11月3日には一般公開もされています。

ところで、この絵を描く前のことですが、若沖はなかなか西福寺さんに行かないので五運はラクダに乗って箕面の滝見物にさそいました。二人が高川の南のはしの「小曽根の渡し」という船つき場まで来た時のことです、ラクダを見た船頭さんは「こんな馬の化け物はごめんです。」となかなか乗せてくれなかったそうです。当時ラクダは珍しい動物でお金を取って見せ物にもなっています。またラクダの毛は魔よけに、おしっこはきずぐすりにして売ったということですが、治ったかどうかは、残念ながら伝わっていません。

 

小曽根は、高川と天竺川にはさまれた盆地で、昔から何度も風水害にあいました。
豪雨が来ると、川がはんらんし家や田畑は水びたしになり、イネなどの作物はたおれて大きな被害をうけました。
村の人は力をあわせてこわれた提防を何度も修理したので今のような高い堤防の川になりました。

昭和9年の室戸台風は、風速60m以上の勢いで吹き荒れ、吹田の豊津小学校では、児童と先生が、校舎の下敷になり亡くなりましし豊中の小学校も、いくつかの校舎がこわれました。小曽根小学校では、柱が抜けそうになったり、階段がはずれそうになりましたが、さいわいにもたおれませんでした。
あとで、「村の人が心をこめて建てた校舎やから、たおれなかったんやなあ。」と話しあつたそうです。


昭和39年に鉄筋に建てかえる工事がはじまりました。